「埋み火」




放して……放してちょうだい!!
いや、いやよ!助けて…………メンフィス!!


メンフィス……メンフィス………
…………助けて……………助けて…………


いやよ………わたしはヒッタイトへなど行きたくない!!
エジプトへ戻らなければ!!
わたしはエジプトにいないと現代へ帰れなくなってしまう!!


助けて………………………
………………………………誰か助けて…………………メンフィス……………………………

助けて………………
………………………………助ケ……テ………………



……………タスケテ……………………………………………………………メンフィスッ!!




「キャロルッ!!」

メンフィスは、はじかれたように寝台の上に身を起こした。
夜明け前の薄明の時。
薄紫色の光が、あざやかに彩色された室内の壁をぼんやりと照らしだし、天井に描かれた星星を抱く天空の女神ヌトは、いつものごとく慈母の眼差しを少年王にそそいでいる。
だが、天を象る女神の姿も、地平線の彼方より今まさに生まれんとしている太陽神ラーの姿も今のメンフィスの目には入らなかった。

耳の奥にはまだキャロルの悲鳴がこびりついている。
必死に自分に助けを求めるキャロルの悲痛な叫び。
流れる真紅の血。
夢の中でキャロルが泣いていた。
泣きながら、助けを求めていた。
あれは、きっと正夢。

「くっそう!!」

手近に置かれた黄金の杯をメンフィスは力まかせに壁に投げつけた。
カンッと妙に澄んだ音が部屋に響き渡り、杯に満たされていた紅い液体があたりに飛び散る。
「誰かあるっ!まだキャロルを連れ去った奴らの手がかりは掴めぬのか!!ウナスからの連絡は!?なにをぐずぐずしておるのだっ!」
苛立ちを押さえきれないファラオの声に、夜詰の衛兵が大慌てで飛んでくる。

「はっ、ファラオ、いまだ連絡はございません。」
「国境の守備隊、砂漠の捜索隊からの報告は!?」
「いずれもまだ…………宰相閣下がおっしゃるには、賊はすでに国外にでたのではないかと……ただいま新たに間者を発し、探らせておりますれば、どうかいま少しお待ちを……」
「……………もうよいっ!さがれ!!」

役にも立たない報告を続けようとする兵士を一喝してさがらせるとメンフィスは足早に部屋を出て、表宮殿へと向かった。
驚く侍女達に一瞥もくれず、門前に引かせた馬に飛び乗ると、勢いよく鞭をくれる。

「ファラオッ!?どうかお待ちを!お一人では危険です!!」
行き先も告げずにいきなり馬を駆って宮殿を飛び出した王に、止める間もなく置き去りにされた護衛兵たちが焦って後を追ってくるが、メンフィスはますます激しく馬を走らせ、一向に速度をゆるめようとしない。


………………キャロル…………キャロルッ!!
そなたはどこに行ったのだ!?

そなたがわたしを呼ぶ声が聞こえる!
そなたの助けを求める声が聞こえる!!

おのれ、なにやつがそなたを連れ去ったのか!
憎っくき奴らめっ 必ず正体を突き止めてくれる!!


《…………メンフィス…………タスケテ……メンフィス…………》


おおっ キャロル!
待っておれ、必ずそなたを助けてやる!
そなたが何処にいようと、必ずや見つけ出し助けてみせる!!

キャロル…………キャロルッ…………
わたしを呼べ!わたしに居場所をしらせよ!!
おお………そなたを助けずにはおくものかっ!


――――――――――――――――キャロル―――ッ







「………………メンフィス………」

遠く、近く波音が響く。
大地が足元からぐらぐらと揺れるような不安定な感覚。
横たわった寝台は妙にかたく、薄いシーツ越しにごつごつとした木の感触を頬に感じる。ひときわ大きな波音が打ちつけるように響き渡り、体全体がぐらりと持ち上げられる奇妙な感覚に誘発され、キャロルの意識は不快な眠りの底からゆっくりと覚醒した。
愛らしい口元から苦しげな吐息が漏れる。

「あ………ここは?……………痛っ……!」
「動くな………」

背後からきこえた凛とした低い声に、キャロルははっとして飛び起きた。
一瞬ですべての記憶が蘇ってくる。

「…………イズミル王子!」

おそろしい誘拐者からすこしでも遠ざかろうと、慌てて狭い船内をぎりぎりまで後ずさるが、すぐに背中が壁にぶつかり、キャロルの背中に鋭い激痛が走った。
じくじくと、やけつくような痛みが少女の背で暴れまわる。
くっきりとした眉をしかめて痛みに耐えているキャロルを、冷徹な眼差しで眺めていた王子が静かに口をひらいた。

「だから動くなと申したのだ。大人しくしておればこれ以上の危害は加えぬものを、そなたが無駄にあがきまわるから、必要以上に痛い目をみるはめになる。」
「…………わたしをエジプトに帰してちょうだい!」
「やれやれ、まだ懲りぬのか? 鞭の痛さは身に沁みておろうに…………。すでにエジプトを出航して3日がたつ。ここからそなたひとりでどうやってエジプトに戻るつもりなのだ。この大緑海の真ん中で………海にでも飛び込むつもりか?」

少女の無謀を揶揄するような、冷ややかな声音。
氷のように冷たく光る眼差しにかすかに嘲弄の色を感じて、キャロルは屈辱に頬を紅く染めた。

確かに王子の言うとおり、この船上からキャロルが逃げ出す術はなかった。
食事を運ぶ兵士の隙を見て甲板に飛び出してみたものの、周囲は見渡す限りの大海原。陸地の影もなく、目指すエジプトの方向すら分からずに呆然として立ちすくんでいるところを、あっというまに再び兵士に捕らえられてしまった。
押さえつける手を振り払おうと暴れたせいで、必要以上に手荒にあつかわれ背中の傷が開いてしまったキャロルは、結局もとの船室に放り込まれ、不本意ながらまたしても王子の手当てを受けることになったのだ。

「そなたはわたしと共にヒッタイトへ行くしかないのだ。」
「………わたしをどうするつもりなの!?」
「さて………どうするのがよいであろうな」

キャロルが精一杯きつい眼つきで睨み付けても、王子は一向にこたえた風もない。涼しい顔で受け流し、それどころか逆に面白そうにキャロルの顔を覗き込んだ。

「なんにせよ、そなたにはいろいろと利用価値がありそうだ。ミタムンの行方もしゃべってもらわねばならぬし……。王の寵姫ならば、いろいろと面白いことも知っていよう。」
「わたしは何も知らないわ!だいいち、わたしはメンフィスの寵姫なんかじゃないわ!!」
「ほう、では何だというのだ。王の女でなければ何故エジプトの王宮にいたのだ?」
「そ………それは…………」

思わず言いよどんだキャロルに、王子は勝ち誇ったような薄い笑みを口元に浮かべた。

「ふっ……無駄な言い逃れを。……ナイルの娘よ、そなたはエジプトの神の娘と聞いたが、真偽のほどは如何であるのか。不思議な娘ではあるが、女神にしてはそなたはいかにも脆弱すぎる……」

意味ありげに王子は口元の笑みを深くした。
優位を確信した支配者の笑み。

「虚言か……はたまた真実か……いずれにせよ、エジプトにとっては都合のよい話ではあろうな」
「だから!わたしはナイルの娘じゃないと言っているでしょうっ!」

苛立ったように必死に言い募るキャロルを、王子は黙って面白そうに眺めている。
どこか値踏みするようなその眼差し。
戯れに問うてはみたものの、キャロルが何を言おうと王子は取り合う気などまるでないのだ。キャロルが何者であれ、メンフィスがあれだけ執着している以上、利用価値は十分とでも思っているのだろう。
それが分かって、キャロルは悔しそうに口を閉ざした。


…………メンフィス………………
メンフィスは、わたしを助けてくれるかしら…………

言うべき言葉を言い尽くし、その無為な行為に疲れ果てたキャロルの胸に、ふいにメンフィスの面影が浮かんできた。

《お前を妃にするぞ。迎えにきたんだ、宮殿へこい!》
《わたしは………お前を愛している………》

熱い囁き……最後に抱きしめられたときの暖かな感触が肌に蘇ってくる。
きらっているはずなのに………なぜか逃げ出すことが出来なかった。
保護された子供のように、胸が高鳴って………
こうして離れてしまった今、不思議なほどに懐かしく思い出される。

《愛している………一日も早くわたしの妃になれ!キャロル………》

涼やかな眼差しが、優しくキャロルを見つめていた。
僅かに少年らしさを残した凛とした声が、波のように心地よくキャロルの白い胸に広がる。

(……けれど、メンフィスはわたしがここに居ることを知らないわ……)

エジプト国内ならば、ファラオの目の届かぬ場所は無い。
だが、キャロルはすでにメンフィスの懐を離れ、エジプトの領土を出てしまった。

(このままヒッタイト国内に入ってしまえば、わたしはどうなるのかしら。……完全にエジプトから切り離され……もう二度と戻れなく――――?)

おそろしい考えにキャロルはぞくりと身を震わせ、思わず自身の身体をぎゅっと抱きしめた。

「何を………考えている?ナイルの娘。」
思考を断ち切るように響いた王子の冷徹な声が、キャロルを現実に引き戻した。
「メンフィス王のことを思っていたのか?」
「ど、どうだっていいでしょう!そんなこと!!あなたには関係ないわっ!」
「これはまた、なんと気の強い………!」

心を見透かされた思いで、悔し紛れに叫んだキャロルの言葉は王子によって遮られた。声と同時に二の腕を掴んで引きずり寄せられ、あっという間に抱きすくめられてしまう。
キャロルは一瞬身をかたくしたが、次の瞬間には自分を捕らえる腕を振りほどこうと、猛然と暴れ出した。

「大人しくいたせっ!」
大きくはないが、有無を言わせぬ威厳のこもった声。
静かな迫力にキャロルはびくりと竦みあがり、息を呑んで動きを止めた。
王子の琥珀の瞳がじっとキャロルを見つめている。
人を支配し従わせる、力に満ちた王者の眼差し。

王子の端正な容貌が間近に迫ってくる。
まるでギリシア彫刻のように、整った顔立ちの美しい王子。
けれどその琥珀色の瞳は、蒼く凍ってみえるほど冷ややかに澄みわたり、無言のうちにキャロルに服従を命じていた。
冷静な光を浮かべた眼差しが、突き刺すようにキャロルを――敵国の王の寵姫、殺された妹姫の恋敵――を見下ろしている。

蛇に睨まれた蛙のように、身体の自由がきかなくなる。
目を逸らすことさえ出来ない。
暗示にでもかかったかのように……射すくめられ、圧倒されて……
いくら虚勢をはって見せても、キャロルが本当は怯えきってしまっていることを、王子はとうに見破ってしまっている。

「人質の身でありながら、このわたしにそのような口をきくとは………許しがたい娘よ……」
王子は玩具を掴むように無造作にキャロルの顎を持ち上げると、長く美しい指で青ざめた頬を愛しむように優しく撫でた。
「だが………確かにそなたは美しい。珍しい黄金の髪、抜けるような白い肌。なによりそなたの蒼い瞳には力がある。エジプトのファラオでなくとも………見れば必ず欲しくなる……男なら誰でも心魅かれずにはいられまい………」

「お、王子………いったい……何を………」
どうしようもなく震えながらも必死に瞳に力を込めて王子を睨みつけようとするキャロルの姿に、王子の心がざわざわと波立つ。かよわい女の身でありながら、絶対的に有利な立場にあるはずの自分に、あくまで屈服しようとしない気丈な娘。
キャロルのその強情さは、強国ヒッタイトの世継ぎであるイズミルの目にはかえって新鮮なものに映った。
我知らず興趣をひかれ、いっそ好ましくさえ思われる。

「王子……放してちょうだ………わたしを、どうするつもりなの………」
「そなたはわたしの戦利品だ。………美しい戦利品に対して男が与える処遇は、決まっていよう………」

言葉の最後は、白い肌に押しつぶされ、掠れていた。
熱い吐息を首筋に感じて、キャロルはビクリと背を仰け反らせた。
「い、いやっ!!何をするの?!放してっ放してちょうだいっっ!!」
「大人しくいたせ……略奪された娘は、その男のものになるのが運命……いくら抗おうとて無駄なこと。そなたはすでにわたしのものだ。………美しいナイルの女神の娘よ………」

熱いくちづけが、うなじから胸元へと降り、白珠の肌に王子の長い髪がはらはらと降りかかる。
キャロルはなんとか逃れようと必死にもがき、王子の身体を押し退けようと渾身の力を込めて暴れるが、鋼のような腕はびくともしない。
王子の指がキャロルの身体の上を優雅にすべり、なめらかな肌をなかば以上露わにする。かつて感じたことの無い恐怖がキャロルの背筋を駆け上り、凍りついた白い喉が掠れた悲鳴をあげた。

「やめてっ いやーーーーーーーっ!!助けてっ誰かっっ!」

背中の傷が裂けて血を流すのもかまわずに、狂ったようにキャロルは泣き叫んだ。
必死に暴れるキャロルの乱れた金色の髪が空中に飛び散り、舞い踊る。
だが、全身全霊をかけたキャロルの抵抗も、王子の圧倒的な力の前には、赤子のようにたやすく抑えられてしまう。

「あきらめよ、わたしからは逃れられぬ。声を限りに叫ぼうとこの船にそなたを助けるものは誰もおらぬ。それに……そなたも後宮の女ならば、このようなことには慣れていよう?」
「いやよっ!やめて…………わたしは違うわ!!お願いはなしてっ!!誰か助けて……メンフィス!メンフィス――――ッ!!」
「無駄だ、ナイルの娘。そなたの声はエジプトには届かぬ…………。」
キャロルのやわらかな肢体を押さえる王子の腕にいっそう強く力が込もる。

「助けて………兄さん!!ママッ ママ――――――――ッ!!!!」

最後に、キャロルの喉から迸った悲鳴に、王子ははじめてその手を止め、腕の中で息も絶え絶えに震える少女をあらためて見やった。
心の底から怯えたようなその表情に、ふと疑惑がわく。
精も根も尽き果てたようにぐったりとしていながら、なおキャロルは王子に身をまかせようとはせず、残された僅かな力を振り絞るようにして抵抗を続けていた。

あまりにも頑なで物慣れぬその姿は、とても愛妾や側室といった類いの女とは思えない。
妍を競い、権力者の寵を争う宮廷の女たちは、はじめは形ばかりの抵抗をしてみせても、すぐに自分から腕の中に身を投げかけてくるものだ。
それを、この少女はムキになって必死の抵抗を続けている。

まるで………そう、まるでまだ異性の肌を知らぬ乙女のように………

「ナイルの娘……そなたは……まさか……………」
思いもかけぬその予感を確かめようと、王子はキャロルの白い顔を覗き込んだ。
涙に濡れた碧玉の瞳。
薔薇色に紅潮した頬に黄金の髪が乱れてかかり、纏わっている。
濡れた頬に張り付いた髪をかきあげようと伸ばした王子の手を、震えながらもキャロルはぴしりと振り払った。
「触らないでっ………それ以上わたしに触れたら舌を噛むわ!!」

泣き濡れていたはずの少女の瞳はいまだ屈服しておらず、この期に及んでなお、新たな光を底から浮かび上がらせている。
自己の尊厳を汚すものをけして許さぬ不羈の眼差し。
無垢な乙女に特有の潔癖さ。
疑惑が確信に変わり、王子の端正な口元に我知らず笑みが浮かぶ。

「………よかろう、そうまで厭うのならば今日のところはそなたを許そう。自害などされては堪らぬし、無粋な真似はしたくない。だが……まさか、そなたのこの白い肢体がいまだ誰のものにもなっておらぬとはな」
「なっ…………!!」
ずばりと言い当てられ、真っ赤になって絶句するキャロルの耳に、さらに追い討ちをかけるように王子の声が低く響く。

「エジプトのファラオは……何故そなたを抱かなかったのだ? そなたをずっと手元においておきながら………王の側女が生娘のままなどという話は聞いたこともない。」
「し、知らないわよ!!そんなこと!!」
「メンフィス王は、我が妹ミタムン王女を、そして女王アイシスさえ退けるほどに、そなたを熱愛していると聞いた。それほどに、そなたは特別な存在であったということか? たんなる気まぐれや、戯れではなく、本気でそなたを妃に望んでいると?」
「だからっ!知らないって言ってるでしょう!!そもそも、わたしはメンフィスの寵姫なんかじゃないって言ってるじゃないっ!!」

いまにも火を噴きそうなほど顔を真っ赤に染めて、地団太踏まんばかりに言い募るキャロルの、駄々っ子のような姿に王子は思わず吹き出しそうになった。

「なるほど、そなたは王の寵姫ではないのか。……それならば、わたしがそなたをいただいたとて、誰からも文句は出ぬということだな」
「じょ、冗談じゃないわ!!勝手なことを言わないでっ!わたしは、わたし自身のものよっ!!文句なんか………あるに決まってるでしょう!!」

いまにも泣きそうな顔で、それでも懸命に叫ぶキャロルに、とうとう王子は堪えきれなくなり、声を上げて笑い出した。

「はははっ………どこまでも強情な娘よ。だがそれもよい!人慣れぬ猫を手なずけるのもまた一興。焦らずとも時間はたっぷりある。そなたはこれから生涯をヒッタイトで過ごすことになるのだからな」
「いいえっ!わたしは絶対にあなたの思い通りになんかならないわっ!!」

撃ち返す様にキャロルが叫ぶ。
「出て行ってちょうだい!!これ以上あなたの顔なんか見たくもないわ!」
己の立場もわきまえぬ不遜な言い草………だが不思議と腹は立たなかった。
全身の毛を逆立てた猫のように、必死に自分を威嚇しようとする少女の姿が、奇妙なほどに可愛らしく見える。

(まことに風変わりな………不思議な娘。人質の立場を理解しておらぬのか?………いや、違う。そうではあるまい。この娘は、はっきりとわたしを恐れ、怯えている。それでいて媚びるどころか、あくまで自分の意思を曲げずに、このわたしに逆らい通そうとするとは………!)

不可解な感情が王子の心に湧き起こる。
それは、一種感動にも似た思い。
自分の羽織っていたマントをふわりとキャロルの肩にかぶせると、王子は静かに立ち上がり、悠然とした足取りで船室を出て甲板へと向かった。
一瞬大きく開かれた扉の隙間から、地中海の明るい光が船内に差し込み、兵士達の歓声がざわめきとなって流れ込む。

「ヒッタイトだ!ヒッタイトが見えるぞ!!」

(ナイルの娘がヒッタイトに………このわたしの手の内にあると知れば、エジプトは、メンフィス王はどうでるであろうか………)

”エジプトの神の娘”を貢物にヒッタイトとの友好の修復を図るか、あるいは戦を起こしてでも力ずくでナイルの娘を取り戻そうとするのか………?

(おそらく和解の道はありえまい!ミタムン王女が失われた以上、我がヒッタイト王たる父上は、決してエジプトを許さぬであろう。そして、エジプトもまた……)

エジプトに古くから伝わると聞く、伝説の乙女の詩をふと思い出して、王子はニヤリと口元に不敵な笑みを刻んだ。

――――ナイルの女神の産みし娘を得るもの………エジプトを得ん――――

(……ナイルの女神の娘。それだけでも十分すぎるほどであったが……どうやらそれ以上の価値がそなたにはありそうな………)

肩越しにゆっくりと振り返ると、彫像のように自分を凝視するキャロルの蒼い瞳と視線がぶつかった。
負けん気の塊のような少女の碧玉の瞳。
王子の口元に一瞬、策略の域を越えたやわらかな笑みが浮かび上がる。
その事実に王子自身は気付いていたのか、いなかったのか…………
悠然と歩を進めた王子は最後にもう一度キャロルを振り返り、その姿を愛おしむように眺めやると、キャロルに背を向け、静かに扉を閉めた。



波瀾に満ちた緑色の波が、力強くガレー船をヒッタイトの岸辺に押しやり、不穏な気配を帯びた海風が満帆の帆先に勢いよく吹き付ける。

陰謀渦巻くヒッタイトの海辺の城はもうすぐそこまで迫っていた。



Fin







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