「予兆」
遥か東の果てより生まれいづる太陽神ラーが、清冽な光を黒き大地に降り注ぐ
暁の飴色の光の中で、わたしはそなたを見出した
悠久の時を流れるナイルのほとり
黒土(ケムト)の国の守護者たるシェセプ・アンクの傍らで
朝日に輝く金色(こんじき)の髪
その身に光を纏った少女
夜明けの光を反射して青く煌くナイルの流れ
そのナイルよりも強く輝く瞳に忽ち心を奪われた
己自身ですら気付かぬほどに、素早く
抗いようもないほど強烈に
―――――なんとしても、そなたを手に入れたいと思った
「メンフィス!お待ちなさい、メンフィスッ!!」
夜の静寂(しじま)を切り裂いて、あでやかな女人の声が漆黒の闇に響き渡る。
玉の如き玲瓏たる声音……だが、惜しむらくは険を含み、やわらかさを欠いている。
「なんだ、姉上?」
その声に振り返った顔は、まだ年若い少年のそれ。
惜しげもなく焚かれた松明の明かりに照らし出された顔立ちは、眉目の整った秀麗なものであったが、そこここに、いまだ幼さの名残を纏わらせている。
「何故あの娘をほうっておくのです?このエジプトの王であるあなたを打つなど、極刑にしてもあきたらぬほどの無礼!!それを何故許しておくのです!?」
激しい口調で詰問する姉の、自分とよく似た美しい面差し。
それを目の端でちらと眺めやると、メンフィスはゆっくりと口を開いた。
「別に……深い意味などない。ただ、あれほど毛色の変わった珍しい娘を、簡単に殺すのは惜しいと思っただけのことだ」
頑是無く、驕慢な………獅子の仔を思わせる悠然とした口振り。
だがどんな理由であれ、メンフィスが己に逆らう者を捨ておくなどはじめてのこと。
その事実はアイシスの心に言いようの無い不安を掻き立てずにはおかなかった。
「……メンフィスお願いです!あの娘を……キャロルをわたくしに譲っておくれ!!」
「いや、姉上。それは出来ぬ。キャロルはわたしの手元に置きます。」
「………メンフィス………」
間髪いれず返された拒絶の言葉。
凛然とした拒否に、それ以上重ねる言葉を見つけられず、
アイシスは口惜しげに引き下がると、キリリと唇をかみ締めた。
――――宴の余韻にさんざめくエジプト王宮――――
新たな主を迎えたばかりのこの壮麗な宮殿では、その夜もほんの一刻前まで、まだ十七歳という少年王メンフィスの即位を祝い、諸国から馳せ参じた賓客を招いての豪華絢爛な宴が賑々しく催されていた。
その宴に余興として引き出された金色の髪の少女キャロルは、もの珍しさと見目麗しさで広間に現れるやいなや、いならぶ列席者の視線を釘づけにした。
王が直々に馬を駆って捕らえてきたという、異国の奴隷娘。
苦役で汚れた白い身体を清め、柔らかな薄紅色の衣をまとったキャロルは、周囲から浴びせられる無遠慮な好奇の視線に一瞬ひるんだように顎を引いたが、すぐにキッと視線をあげると毅然として胸を張り、小さな拳を握り締めてまっすぐにメンフィス王を睨みすえた。
「なんと………驚いた、これがそなたの素顔か。まるでナイルに咲く蓮の花のような!」
ぐいと無造作にキャロルの顎を掴み上げ、まじまじと白い花のような貌(かんばせ)を覗きこむ。メンフィスの漆黒の瞳と、透き通った蒼の下に強靭な意志を秘めたキャロルの瞳がカチリと交わった。
(負けるものですか!絶対、絶対こんな卑怯なメンフィスなんかに屈服したりしないわ!!)
真正面から自分を見つめるメンフィスを、キャロルは力を込めて睨み返した。
まるで互いが互いを、視線で捩じ伏せようとでもいうかのように、二人の眼差しが音を立てて絡み合い、透明な火花を周囲にまき散らす。
(強情なっ!こやつあくまでエジプト王たるこのわたしに逆らいとおすつもりか!? ふん…だがそれも面白い。どうあがこうと所詮は捕らえられた獲物。……どこまで意地を張り通せるか、見物よな……!)
メンフィスの口元が僅かに持ち上がり、秀麗な顔に不敵な笑みが浮かんだ。
若者特有の傲慢さを、王者の自信が後押しする。
(獲物は手ごわいほど落としがいがあるというもの。キャロルめ、せいぜいわたしを楽しませて見せるがよい!!)
宴が始まり王の傍らにはべらされても、キャロルは自分におもねるどころか、口をきこうともしない。きゅっと口元を引き結んだ硬質な横顔。
無礼ともいえるその態度に多少の苛立ちと不快さを感じはしたが、それ以上に、少女の純粋な頑なさは、年若い王にとって新鮮で興味を惹かれるものだった。
掴んだ白い腕は細く、強く引き据えれば簡単に倒れこんでくる。
なのにその蒼い瞳はあくまで気丈な光を浮かべ、けっして自分に身体をあずけようとはしない。
酒宴の席が進むほどに、キャロルに対してただの好奇心というには不可解なほどに強い興味がわいてくる。
奇妙なことに、自身も捕らわれの身でありながら、キャロルは自分のことよりも、共に捕らえられた奴隷の少年の様子を気にかけているようだった。
夜伽を命じたメンフィスをきっぱりとはねつけたキャロルだが、あの奴隷の少年の命を盾にとれば、あっさりと陥落することだろう。
だが……
「メンフィス様」
アイシスと対峙するメンフィスの前に女官長のナフテラが跪き、静かに声をかけた。
「キャロルの身柄はどちらに移せばよろしゅうございましょう。女奴隷達の部屋にいれましょうか?……それともやはり、牢に……?」
「いや、奥宮殿の西の宮に部屋をしつらえよ」
メンフィスのその言葉にアイシスは扇を取り落とすほどに驚いて、優美な眉を逆立てた。
「メンフィスッ!? なにを言うのです、奴隷娘に奥宮の部屋を与えるなど聞いたこともありませぬ!それに西の宮はあなたの宮殿に最も近い棟………あんな素性も知れぬ娘を近くにおいて、もし万一のことでもあればなんとするのです!!」
「いらぬ心配だ。キャロルは刺客などではない」
「何故そう言い切れるのです!?メンフィス、あれは異国の娘です。どうやって我が国にはいりこんだかも判然とせぬ。あんな危険な娘は即刻殺しておしまいなさい!」
「姉上!それはならぬ!!」
思いもかけぬ厳しさで発せられたメンフィスの言葉に、アイシスは思わず口を噤み、美しい瞳を見開いた。誇り高い女王の聡明な眼差しが、言い知れぬ不安と恐怖に揺らぎ、困惑と混乱を示すように優雅な眉宇がくしゃりと寄せられる。
「メンフィス………そなたは、何故それほどキャロルを気にかけるのです……!?」
「あれはわたしの獲物。いかに姉上といえど手出しは許さぬ!」
冷淡で身勝手な言い草とは裏腹に、熱く燃えるメンフィスの瞳は真剣そのものだ。
人であれ物であれ、メンフィスがこれほどに執着を示したものはかつて存在しなかった。
紅く朱を差したアイシスの華麗な口元がわなわなと震える。
「……メンフィス……そなた、まさか……まさか本気であの娘を……キャロルを……………愛したのではありますまいな……………」
「姉上!? なにを馬鹿なことを申すのだ!!」
「あなたはつい先ほど、わたくしと婚約したのですよっ!!あなたの妃になるのはこのわたくしです!!」
抑えきれぬ激情にアイシスの頬が薄紅色に上気する。
「おおメンフィス………愛しているのです。わたくしはずっと、あなたの花嫁になる日を夢見て、今日まであなたを守ってきたのです……………」
炎のような情熱が、美貌の女王にいっそう艶やかな彩りを添える。
だがメンフィスはすがりつくアイシスを無造作に引きはがすと、放り投げるように応えを返した。
「わかっておるわ、姉上。結婚は王家の義務だ。姉上との約束を違えるつもりはない」
メンフィスのその言葉に、アイシスは一瞬切なげに瞳を潤ませた。
「………義務ではありませぬ……わたくしはあなたを愛しているのです、メンフィス……」
黒曜石の瞳が透明な光を湛えて、じっとメンフィスを見つめている。
エジプト一の美女と謳われた女王の、愁いを帯びた艶麗なその眼差し。
「くどいぞ姉上。わかっていると申している」
けれどメンフィスはさしたる感銘を受けたふうもなく、アイシスを一瞥すると、一言そう言い捨てて、くるりと踵を返してしまった。
「………メンフィス…………」
夜の闇に包まれた王宮の廊下を遠ざかってゆく、規則正しいメンフィスの足音。
それを恋しく耳で追っていたアイシスの朱色の唇から、零れ落ちた熱い吐息が、夜の静寂(しじま)にはじけて消えた。
たゆたう闇のなか、明明と燃える松明の焔だけが妖しく揺らめく。
生命あるもののように蠢く紅蓮の炎光が一瞬大きく燃えあがり………
…………音も無くゆっくりと………溶け、崩れていった…………………
(ふん、まったくうるさいことだ!!)
ナイルより吹き寄せた涼風が、メンフィスの漆黒の髪を弄び、優しくなぶっては吹き過ぎてゆく。
(結婚など意味はないのに。王家の血統を守り、領土を広げる手段にすぎぬではないか!姉上ほど聡明な女人が、何故こんな簡単なことがわからぬのか)
ことあるごとに自分を愛しているとうったえる姉女王。
もちろんメンフィスにとっても、たった一人の姉はかけがえのない存在であり、大切な女人ではあったが、アイシスの執拗なほどの愛情は、時にメンフィスに軽い閉塞感を抱かせる。
うんざりとした面持ちで足早に歩を進めるメンフィスの胸に、ふいにキャロルの白い花のような面影があざやかに浮かび上がってきた。
激しい怒りを込めて自分を睨み上げた、清冽な蒼い眼差し。
強く輝く瞳の蒼さが、他を圧倒してメンフィスの心を占領してゆく。
あれほどはっきりと、正面から自分を見据えた強い瞳がこれまで他にあっただろうか。
《キャロルを……愛したのではありますまいな………》
キャロルの面影に重なるように胸に響いたアイシスの声に、メンフィスははっとして足をとめ、思わず後ろを振り返った。
色鮮やかに彩色された柱に飾られた廻廊には他に人影はなく、深閑として静まりかえっている。
廻廊の片隅で熱く密やかに燃え盛る篝火の危うい光に半身を晒し、しばし呆然としてその場に立ちすくんでいたメンフィスの喉から、やがて低くうめくような声が押し出された。
「馬鹿な……愛、だと……このわたしが、あんな奴隷娘を………?!」
漆黒の闇を閉じ込めた黒曜石の瞳に一瞬、メンフィス自身ですら感知しえぬ不可思議な光が煌めいた。もやもやとした、得体の知れぬ感情が胸に渦を巻いている。
「わたしが、キャロルを………愛しているだと……………?」
ちりちりと胸を焦がすような焦燥と昂揚が奇妙に入り混じった、不可解な感覚。
キャロルの蒼い眼差しが、ひときわ鮮烈に脳裏に浮かび上がってくる。
「………ふんっ!なにをたわけたことをっっ!!」
刹那の逡巡の後、メンフィスは舌打ちと共に吐き捨てるようにそう呟くと、纏わりつく少女の面影を振り払うかのように勢いよく前方に向き直った。
肩から背を覆う真紅の肩衣がばさりと舞い上がり、そのまま裾を地につけることなく豪奢な廻廊のあいだを靡いてゆく。
「くだらぬっ!!あれは狩りの獲物にすぎぬ!そのようなものに情けをかけるなど、まして心惹かれるなど、愚かの極み……っ」
涼やかな夜風が少年の頬をかすめ、飄々として吹き過ぎた。
煌煌と燃える松明の焔が、己の心を闇雲に否定する少年王の倣岸さを嘲笑うかのように、明るい火の粉を舞い踊らせる。
ナイルは歌う………いまだ己の恋を自覚せぬ少年の葛藤を包み込むように………
……………慈しむように………………………………やさしく……………………
――――愛しいキャロル―――――
夜明けの光をやどした、清冽な眼差し
輝くナイルより美しい娘
悠久の時を流れる母なるナイルのほとりで、わたしはそなたを見出した
暁の飴色の光の中で
―――――なんとしても、そなたを手に入れたいと思った―――――
Fin
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